川崎市登戸殺傷事件に「1人で死ね」と言っちゃいけない?
川崎市登戸で小学生含む19人が刃物で刺された事件。
子を持つ親として、どこに向けたらいいか分からない「怒り」と「悲しみ」と「恐怖」で茫然としました。
で、最近出てきたこの論争↓
「死にたいなら1人で死ね」と言うべきではない
というもの。
この主張の根拠は、
まさに今自殺しようと思っている人をさらに追い込みかねないし、事件の本質とズレているから言うな。
ということらしいのですが・・・
いや、ふつうに言っていいだろ
と、率直に私なんかは思いました。
たとえば、この記事。
この事件について、ジャーナリストの江川紹子さんが書かれたものなのですが↓
この方がおっしゃっていることは、たしかにその通りだなと思う所もあって、理解もできます。しかし、
だからと言って「1人で死ねって言うな」と世間に触れ回るのは、それこそ意味が無いのでは??
と思ってしまう。
先ほどの江川さんの記事ですが、
「当事者が怒るのは仕方がないけど、当事者じゃない人は、当事者じゃないからこそ言えることがあるのでは。」
という、ある方の考えに江川さんが共感をしたことが書かれていて、おそらくですが江川さんは
「1人で死ね」と言っている人はみんな「当事者じゃない」だろう??
という前提でおっしゃっているように受け取れるんですよね。
たしかに「今回の」事件の当事者か?と聞かれたら、私を含む多くの人は「当事者ではない」です。
しかし、
「もしかしたら今回刺されていたのは自分の子供だったかもしれない」
という当事者意識を持つ親御さんはきっと多かったと思うんですよ。
だから、怒るんですよね。
「何も悪くない子供巻き込むなよおぉぉーー!!!」って。
たとえ犯人に同情の余地があったとしても、子供が刺された事実は変わらないし、死んだ人間は二度と帰ってこない。
「もしこれに我が家が巻き込まれていたら」と考えたら、ふつうに怖くないですか??
いま私は、「外出するときは防刃(ぼうじん)ベストくらい着たほうがいいのかなぁ?」と、ちょっとぶっ飛んだ対策を思いつくくらいには震えています。
そうやって、今回の事件を「自分ゴト」として考えた人が多かったからこそ、結果「1人で死ね」という言葉がこんなにも出てきたのでは。
これ、無関心よりは数万倍いいと思うんですが?
「マクロ(社会全体)の視点で考えられない人が多い」
というのを問題にする前にまずは、
「ミクロ(個人)の視点で多くの人が当事者意識を持った」
というだけで、まずは良いじゃん!みんな関心持ってるじゃん!これからどうするか、みんなで議論できるじゃん!
って雰囲気にしていかないと、それこそ、問題なんてなにも解決しないよ。
もし今回、誰一人として「死にたいなら1人で死ね」と言わなかったとしても、それで今後、巻き込み自殺する人の抑止にはぜったいならないと思うけどなぁ。
と、当事者意識を持ったひとりとして考えてみました。